The Opposite of Fate/ Amy Tan

エィミ・タンの小説は、ずーっと昔に『ジョイ・ラック・クラブ』を読んだきりで(で、映画も見ました)、それ以外の小説は、読んでいないのですが、図書館でたまたま借りたこちらの本に今はまっています。
(まだ読み終わっていないのですが・・・)

いろいろなところに書いてきた自伝的エッセイのようですが、やはり実母との関わりを書いた部分、いろいろ考えてしまい、行きの電車で読んでいたら涙が止まらなくなってしまった。

『ジョイ・ラック・クラブ』にも描かれているように、彼女の母は、娘に高い期待を寄せ、しかしながら娘に否定的で、自分の親から受け継いできた暗い運命を消化できていない女性。
中国を離れてアメリカに来てからも、長男と夫を相次いで脳腫瘍で亡くすなど、不幸に見舞われて、その都度、なぜ私ばかりこんな目に?という怒りのパワーで80代まで生きたような女性。

エィミ・タンは、子ども時代から母が、「それなら私は自殺する」といって家族を振り回す母に腹を立てながら暮らしてきたのだけれど、
『ジョイ・ラック・クラブ』を執筆するに当たって、母親に中国での経験を尋ねた際、母の目の前で彼女の母親(エィミ・タンの祖母)がアヘンで自殺したことを知ります。

この話が結構面白くて。
母親は、はじめ自分の母が死んだ理由を隠しているのですね。あなたの祖母は、夫に死に別れた後、金持ちの男と再婚して第一婦人になり、息子にも恵まれた。でもアヘンのやり過ぎで死んだのだ、と。
しかし、エィミ・タンは、母から聞いた話とは少し変えて、夫と死に別れて無理に金持ちの第4夫人にされ、生まれた息子も正妻に取り上げられて、絶望のあまりアヘンを新年のお菓子に練り込んで、自殺した、と、そう『ジョイ・・・』には書いたわけです。

すると母親は、「なぜおまえは私が話さなかった真実を知ってるの?そうか、おまえは昔から幽霊が見えると言っていた!」と、コンピュータの中に、文字通りのゴーストライターがいる、と言い張ると。

エィミ・タン本人は、おそらく母が親族と、娘には分からないと思って上海語で話していた話や、いつも「自殺する」と言い続けた母の態度から、自分は真実を知っていたのだろう、と書いています。

そんな母が晩年アルツハイマーを患うのですが、アルツハイマーの初期症状と言われる、言葉がおかしくなる、合理的な判断ができない、すぐ議論する、という特徴が、母親の普段の状態と一致しているので、なかなか気づかなかった。あるとき、あまりにもつじつまの付かないことを言い、身支度もきちんとできなくなった母親を病院に連れて行って、アルツハイマーと診断され、同時に、若い頃からの鬱や気分障害に対する薬も処方されるのですが、その顛末を描いた、「最後の一週間」には号泣でした。

病気のためか、抗鬱剤の効き目なのか、明るく陽気になった母親と話しながら、「もし母が、早くからこうした治療を受けて、幸せで抑圧的でない母親だったとしたら、私はどう育ったのだろう?」と考えるところ。

記憶がぼやけている母が、「おまえの父親に出会ったときの話」を娘に話し始め、そこに(もちろんまだ生まれているはずのない)自分が一緒に父と母の出会いに立ち会っているかのように話すのを聞いて、母の一番幸せな時代の記憶に自分が存在していることを喜ぶところ。

まさにあの世に旅だとうとしている母に、エィミ・タンはこう書いています。

「私はつぶやいた。お母さんの他に誰が私のことをこんなに心配してくれるというのだろう? 誰が私の不注意が身体に引き起こすひどい状態を子細に描写してくれるというのだろう?誰が、私が宝石を夫に無理矢理買わせて、宝石と私を置いていくのが不可能にしなければ、彼は若い女に乗り換えるかもしれないなんて、率直にもほどがあるようなひどいことをいってくれるのだろう」 (p.96)

と、このあたり、ボロボロ泣きながら、読んでいて電車の中で相当恥ずかしかったのですけれども・・・。(私の母親はまだ健在ですが(エィミ・タンの世代)、親を看取る時を考えてしまったのか・・・。)

同時に、こういう鬼母のイメージって、アジア的な表象なのかなぁ?と思いました。

アメリカ在住の日本人作家(市民権をとっているかも。移民一世)、キョウコ・モリのデビュー作『シズコズ・ドーター』では、夫の不貞に悩み、自殺する母、その後父と決別してアメリカへ行く娘が描かれます。その中でも、「私のように弱くなってはならない」という母の遺言が象徴的に使われます。

アメリカからみて、女性が抑圧された東アジアからやってきた女性が、アメリカでより自由になるっていうプロットは受けがいいだろうなぁ〜とか思ってしまいました。(このエッセイ集でも、自殺した祖母に思いをはせながら、エィミは、自分は愛する夫と不動産を共同所有し、自分で収入を得て、その範囲内で誰の許可も受けずに、自分の欲しいものを買うことができる、そして選択的に子どもを持たずに生活できるのだ、と祖母が知ったらどう思うだろう?というようなことを書いています)

最近の新世代の中国系作家の小説なんかだと、もうちょっと違うのかな〜? こんど映画化される、イーユン・リーの『千年の祈り』は、父と娘の物語のようだし。(まだ読んでないのでどんな話かわからないが・・・)

同時に、アメリカのまなざしを通すまでもなく、昨年ちょっと私の周辺では話題になった(これ、わかるわかるよ〜的に)、信田さよ子の『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』なんかに描かれている母イメージとも、エィミ・タンの母って重なるんだよねぇ・・・やっぱりそういう社会文化的な縛りがあるんだろうか・・・とかいろいろ考えてしまった私でした。

あ、この本は、母の話ばっかりというわけではなく、強盗に殺害された知人をめぐる不思議な話とかも、結構感動で、ちょこちょこ読むのにとてもよいです。