『直筆商の哀しみ』 ゼイディー・スミス

主人公のアレックス・リ・タンデムは、中国人の父とユダヤ教徒の母の間に生まれたイギリス人の男。少年時代に、友だちとともに父に連れて行かれたレスリングの試合で、著名人のサインを集める少年ジョーゼフに出会ったことをきっかけに、サイン(Autograph)を集め、売買し、鑑定することを仕事にする Autograph man になる。

前半は、ちょっとわかりにくかった。だが、ほとんど出回らない、少年時代からのあこがれの女優、キティ・アレグザンダーのサインを手に入れたことで、アレックスがNYに旅立ち、話が急に動き出す後半は、続きが気になって読みやめられないかんじ。

シンボルやジェスチャー、小話、映画の台詞、といった表層的なイメージを通じてコミュニケーションをとるアレックスやその仲間たち。有名人のサインと、上下するその価値、真贋をめぐるやりとりが、こうしたコミュニケーションを象徴的に示している。

親密な関係(恋人のエスター、友人のアダムやジョーゼフ、母親etc..)だって、やっぱり私たちは、何かのシンボルを通じてしか伝え合うことができなくて。
でも、別にシンボル 対 実在 というような対立関係はありえない。

そういうことを、理屈っぽくではなくて、分かる分かる〜、と思えるようなかたちで、差し出されたような小説でした。

『ホワイト・ティース』もやはり読んでみよう。(実は英語で持ってるために、邦訳を読めずにいたという、本末転倒な話)

 カールじいさんの空飛ぶ家

6歳児の強い希望で見に行きました。

朝日新聞の映画評で沢木耕太郎がこの映画をとりあげていたのを読みました。
http://doraku.asahi.com/entertainment/movie/review/091216_2.html

で、うーん、子どもが見ておもしろいんだろうか?と疑問に思っていたのですが、まぁ大人目線で見るとこうなりますが、普通に子ども向けの冒険活劇です。

沢木氏が取り上げている冒頭の10分は、確かにじーんときます。アニメーションも美しくて。
でも、夫婦に子どもができなかった(流産した?)ということを、きっちり強調していて、私などはそこで泣いてしまいましたが、このことをカールじいさんが過去に固執する理由の一つとして描いているのは、ちょっとな〜、と思いました。

風船を屋根に大量に付けて飛び立っていく家の姿は圧巻で、風船の透明感もあって、わぁ〜、という気持ちになります。鑑賞中の子どもたちも大喜びでしょう。
そこに、お年寄りを助けるというボーイスカウト活動の課題を達成しようと、じいさんにつきまとっていた少年、ラッセルが登場。飛び立った家のポーチで震えていた、なんて、とてもナンセンスなんですが、アニメだからOK。

このラッセル君が、アジア系の離婚家庭の子どもとして描かれていて、主人公が老人とマイノリティの子どもというのも、なかなかおもしろいなぁと感じました。カールじいさんが妻・エリーを失っているのと同じく、ラッセルは父親の不在に悩んでいるわけです。そうなると(=2人が互いに欠落を埋める存在になるというハッピーエンドに導くためには)、カール夫妻が子どもを持たなかったということを強調する必要があるのかもしれませんが、有るべき家族像、という感じがしてしまいます。

で、2人は旅の過程で、思いがけぬ(=って大人にはだいたい想像つくのですが)人物に出会い、戦うことになります。この人物は、近代的・開拓的・侵略的な存在であり、だからこそラッセル君はマイノリティとして、カールじいさんはひ弱な少年→無力な老人として描かれているのかも?などと考えました。が、最後のクレジットを見ると、ずらりと並んだスタッフのかなりの人たちがアジア系の名字を持っていることに気づきました。これだけアジア系の人たちが関わっているのだから、重要登場人物が白人ばかりでは、リアリティに欠けますね。

おそらく途中20分ほど記憶がありませんが、子どもも楽しんでたし、自分としても、ま、おもしろかったです。しかし、カールじいさんの成長、子どもには理解できたのかな?ちょっと難しいかも?! 風船で飛ぶ、犬がしゃべる、それだけで十分おもしろいからいいのかな〜?

 『ドゥーニャとデイジー』

http://www.dunya-desie.com/

アムステルダムに住むモロッコ系2世のドゥーニャと、幼なじみのデイジー。18歳になった2人は、親がモロッコの親族と見合いをもくろむなか、違和感を覚えながらも、何となく従ってしまうドゥーニャに対し、ボーイフレンドをとっかえひっかえしているうちに、思わぬ妊娠に当惑するデイジー、と対照的な生活を送っている。

ドゥーニャは、ほとんど覚えてもいないいとことの結婚なんて・・・と母に反発するが、オランダに来たせいだ、そんな風に言うなんて私のムスメじゃない!と母親に言われて傷つく。
他方、中絶を迷うデイジーは、やはり若くして自分を産んだ母に、「お母さんは私を産んで後悔している?」と尋ね、「後悔している」と言われてショックを受け、実の父が住むというカサブランカを目指して、とりあえずドゥーニャが家族と向かった街へと、1人旅立ってしまう・・・・

というのが、大まかなあらすじ。

オランダのムスリムというと、トルコからの移民が多いというイメージを持っていたのですが、オランダはモロッコとも労働力移民の協約を結んでおり、トルコ人に次ぐ存在のようです。これは知らなかった。

この映画はオランダでヒットしたドラマの続編的な位置づけらしいです。ただ、ドラマが終わった頃に、テオ・ヴァン・ゴッホが暗殺されたり、と、国内のムスリムに対する認識が多少変わってきているとのこと。

映画自体への感想として、デイジーの側の無防備なセックスと妊娠、そして自分探し→自己肯定感の獲得、みたいなストーリーは、定型的ながらもよくまとまっている(=実は泣いた私・・・)のに対し、ドゥーニャの方のストーリーが、ちょっと見えづらいような感じがしました。
両親との和解、ルーツの確認、というあたりが、ちょっと表面的というか・・・。
親の側は、娘と息子へのダブルスタンダードを改めたというあたりが進歩なのか。
また、ドゥーニャの一家が、いかにも低階層な雰囲気(ファッションや行動が)のデイジー一家をすごく嫌っていて、「付き合うな!」と娘に再三言っているのに対し、デイジーの側は、そういう偏見をあまり持たないように描かれているのも、ちょっと気になります。
いわば、マイノリティの側が過剰に防衛的になって、自分たちの世界に引きこもっているかのような印象を与えるような気がするのです。
(これは『ベッカムに恋して』でも思ったことで、実際映画を授業などで見せると、そうした感想が戻ってくることがしばしばあります)

他方で、主に"南"から移民してきたマイノリティが、住居や職業の面で、出身地域の階層よりもやや低いところに参入せざるを得ないため、周辺に住むホスト社会の下層に位置する人びとに対して、軽蔑的な態度をとる、というのは、ありうるのかもしれません。
以前DVDで見たイギリス映画で、『Anita and me』というのがありましたが、似たような構図だった気がしました。

しかし、こうした不満点はあるにせよ、主人公のガールズがかわいくて生き生きしている、モロッコのあちらこちらをうろうろするロードムービー的な魅力、などもあって、全然退屈しない作品ではありました。
とくにドゥーニャ役の女優さん、カワイイです!

また、先に書いたものとも関連するのですが、この映画の移民母は、娘に「私のようになりなさい」「コミュニティの規範に従いなさい」と命じてくるのであり、「私の間違いを繰り返してはならない」というエィミ・タン的な母イメージとは大きく異なっています。
ベッカムに恋して』のインド系母も、娘の夢には否定的であり、むしろ異性である父=ホスト社会とのつながりが母より強い、が、最終的には娘の理解者となるのです。

いろんな移民映画で、母の描き方を比較するとおもしろいかも・・・。

というか、なぜか移民モノは、娘たちが主人公のものが多い,ということ自体が、ちょっと気になります。
男はホスト社会とコンフリクトを起こすため(=起こすものとして描かれるため、ということです。念のため)、コメディに向かないのでしょうか?

 The Opposite of Fate/ Amy Tan

エィミ・タンの小説は、ずーっと昔に『ジョイ・ラック・クラブ』を読んだきりで(で、映画も見ました)、それ以外の小説は、読んでいないのですが、図書館でたまたま借りたこちらの本に今はまっています。
(まだ読み終わっていないのですが・・・)

いろいろなところに書いてきた自伝的エッセイのようですが、やはり実母との関わりを書いた部分、いろいろ考えてしまい、行きの電車で読んでいたら涙が止まらなくなってしまった。

『ジョイ・ラック・クラブ』にも描かれているように、彼女の母は、娘に高い期待を寄せ、しかしながら娘に否定的で、自分の親から受け継いできた暗い運命を消化できていない女性。
中国を離れてアメリカに来てからも、長男と夫を相次いで脳腫瘍で亡くすなど、不幸に見舞われて、その都度、なぜ私ばかりこんな目に?という怒りのパワーで80代まで生きたような女性。

エィミ・タンは、子ども時代から母が、「それなら私は自殺する」といって家族を振り回す母に腹を立てながら暮らしてきたのだけれど、
『ジョイ・ラック・クラブ』を執筆するに当たって、母親に中国での経験を尋ねた際、母の目の前で彼女の母親(エィミ・タンの祖母)がアヘンで自殺したことを知ります。

この話が結構面白くて。
母親は、はじめ自分の母が死んだ理由を隠しているのですね。あなたの祖母は、夫に死に別れた後、金持ちの男と再婚して第一婦人になり、息子にも恵まれた。でもアヘンのやり過ぎで死んだのだ、と。
しかし、エィミ・タンは、母から聞いた話とは少し変えて、夫と死に別れて無理に金持ちの第4夫人にされ、生まれた息子も正妻に取り上げられて、絶望のあまりアヘンを新年のお菓子に練り込んで、自殺した、と、そう『ジョイ・・・』には書いたわけです。

すると母親は、「なぜおまえは私が話さなかった真実を知ってるの?そうか、おまえは昔から幽霊が見えると言っていた!」と、コンピュータの中に、文字通りのゴーストライターがいる、と言い張ると。

エィミ・タン本人は、おそらく母が親族と、娘には分からないと思って上海語で話していた話や、いつも「自殺する」と言い続けた母の態度から、自分は真実を知っていたのだろう、と書いています。

そんな母が晩年アルツハイマーを患うのですが、アルツハイマーの初期症状と言われる、言葉がおかしくなる、合理的な判断ができない、すぐ議論する、という特徴が、母親の普段の状態と一致しているので、なかなか気づかなかった。あるとき、あまりにもつじつまの付かないことを言い、身支度もきちんとできなくなった母親を病院に連れて行って、アルツハイマーと診断され、同時に、若い頃からの鬱や気分障害に対する薬も処方されるのですが、その顛末を描いた、「最後の一週間」には号泣でした。

病気のためか、抗鬱剤の効き目なのか、明るく陽気になった母親と話しながら、「もし母が、早くからこうした治療を受けて、幸せで抑圧的でない母親だったとしたら、私はどう育ったのだろう?」と考えるところ。

記憶がぼやけている母が、「おまえの父親に出会ったときの話」を娘に話し始め、そこに(もちろんまだ生まれているはずのない)自分が一緒に父と母の出会いに立ち会っているかのように話すのを聞いて、母の一番幸せな時代の記憶に自分が存在していることを喜ぶところ。

まさにあの世に旅だとうとしている母に、エィミ・タンはこう書いています。

「私はつぶやいた。お母さんの他に誰が私のことをこんなに心配してくれるというのだろう? 誰が私の不注意が身体に引き起こすひどい状態を子細に描写してくれるというのだろう?誰が、私が宝石を夫に無理矢理買わせて、宝石と私を置いていくのが不可能にしなければ、彼は若い女に乗り換えるかもしれないなんて、率直にもほどがあるようなひどいことをいってくれるのだろう」 (p.96)

と、このあたり、ボロボロ泣きながら、読んでいて電車の中で相当恥ずかしかったのですけれども・・・。(私の母親はまだ健在ですが(エィミ・タンの世代)、親を看取る時を考えてしまったのか・・・。)

同時に、こういう鬼母のイメージって、アジア的な表象なのかなぁ?と思いました。

アメリカ在住の日本人作家(市民権をとっているかも。移民一世)、キョウコ・モリのデビュー作『シズコズ・ドーター』では、夫の不貞に悩み、自殺する母、その後父と決別してアメリカへ行く娘が描かれます。その中でも、「私のように弱くなってはならない」という母の遺言が象徴的に使われます。

アメリカからみて、女性が抑圧された東アジアからやってきた女性が、アメリカでより自由になるっていうプロットは受けがいいだろうなぁ〜とか思ってしまいました。(このエッセイ集でも、自殺した祖母に思いをはせながら、エィミは、自分は愛する夫と不動産を共同所有し、自分で収入を得て、その範囲内で誰の許可も受けずに、自分の欲しいものを買うことができる、そして選択的に子どもを持たずに生活できるのだ、と祖母が知ったらどう思うだろう?というようなことを書いています)

最近の新世代の中国系作家の小説なんかだと、もうちょっと違うのかな〜? こんど映画化される、イーユン・リーの『千年の祈り』は、父と娘の物語のようだし。(まだ読んでないのでどんな話かわからないが・・・)

同時に、アメリカのまなざしを通すまでもなく、昨年ちょっと私の周辺では話題になった(これ、わかるわかるよ〜的に)、信田さよ子の『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』なんかに描かれている母イメージとも、エィミ・タンの母って重なるんだよねぇ・・・やっぱりそういう社会文化的な縛りがあるんだろうか・・・とかいろいろ考えてしまった私でした。

あ、この本は、母の話ばっかりというわけではなく、強盗に殺害された知人をめぐる不思議な話とかも、結構感動で、ちょこちょこ読むのにとてもよいです。

 『ボクたちクラシックつながり―ピアニストが読む音楽マンガ』

青柳いづみこ 文春新書

出勤途中にのだめの最終巻、駅の本屋で買って読んじゃいましたw
なんか眠くて本とか読めないし〜。漫画だと寝ないのはなぜ??

それはおいといて、図書館でたまたま借りた、青柳いづみこさんの新書、のだめや『神童』、『ピアノの森』などの音楽漫画をネタに書かれたエッセイです。

楽譜をちょいちょい変えながら弾くのだめスタイルは、19世紀にはむしろ普通だったこと、とか。(ホロヴィッツは19世紀の生き残り演奏家なんですね・・・ふむふむ)
音大卒業生は「不良債権」というのはホント。演奏で生活できる人は日本に数十人であること、とか。
留学をめぐるあれこれとか。
20世紀のいろんな演奏家の言葉や批評も交えて、書かれていて、とても面白かったです。

ピアノ再開して(月1回だけしかレッスン受けてなくて、このところ忙しい〜をいいわけにサボり気味ですが)、仕事中に音量下げてクラシックを聴くことも多くなりましたが、知識がないもんで、「おお、素敵だわ!」という感想以外もてなかったので、前半部の演奏批評的な部分、そういうふうに聞いてみたらどうなるだろう?と興味を持てました。

クラシック音楽という西洋からの古典文化。日本ではもちろんのこと、ヨーロッパでも、生活していくのも大変だし、批評、暗譜などのプレッシャーも大きい。
演奏家を目指す人は、ものすごい天才か、現実が見えてない馬鹿者か、という言葉に、著者は、でも、そこまで考えることもなく、気がついたら演奏しかない状況にいた人も多いのでは?と言っています。
でも、「私たちはいつも夢の中にいることができる」っていう演奏家の言葉には、ぐっときます。

大学院も、あーなんて私はバカなんだ、ちゃんと仕事につかずに!!と何度も思ったし、当時の指導教官から、「自分は院に進みたいと言ったら、指導教官から”君は長男かい?長男だったらやめなさい」と言われた」、と暗に、(このまま仕事なくても僕は関係ないからね)的引導を渡された私。でも音楽ほど狭き道じゃないものね・・・芸術は厳しい、と思った。

ピアノも、実は小学5年生くらいのときに、当時の先生から、音中を受けない?って言われたことがあるんです。すごく上手ではなかったけど、まじめだったし、先生の言うことも聞くカワイイ生徒だったと思う。ピアノも好きだったし、うまく弾けたらうれしかった。発表会は気持ちが盛り上がって大好きでした。
でも、「音楽を仕事にする、っていうほど、これからも音楽が好きかどうか分からないから、中学入る所で決めたくない」って断ったんですよね。ぶっちゃけ、つぶしがきかない、って子ども心に考えたんだと思う。そして、中学に入ったら部活とかいろいろ忙しくて、めっきり練習しない子になってしまいました。

で、のだめの最終巻よんだら、コンヴァトのちっちゃい子(リュカ?)が、「僕は音楽を専門にしているから、普通の勉強は家庭教師に習っているんだ」とのだめに打ち明ける。
(青柳さんの本によれば、コンヴァトは年齢制限が21歳で、ほんとは22歳ののだめちゃんが留学しているのはおかしいらしいです。だから才能のある子は、歳が小さくても入学するんだそうで。日本からは留学しにくいみたいですね〜日本で音大を卒業すると年齢制限にひっかかってしまう、ということで)

で、のだめは「音楽のことにやりたいことはなかったの?普通の学校に行きたくなかった?」って尋ね、彼は「それでも音楽が一番好き」って答えるシーンがあって。
そうなんだろうなぁ・・・それで”選ぶ人”だけが残っていくのでしょうね。

ピアニストの人のエッセイって、中村紘子のものを、むかーし読んだことがあるくらいだったけど(コンクールの裏幕みたいな本)、青柳いづみこはすごい読みやすくて面白かったです。
専門だというドビュッシーの本もこんど読んでみよう。

 『クレイジー・ストーン』

原題は「疯狂的石头」  寧浩監督
http://ent.sina.com.cn/f/m/fkdst/index.shtml

ずいぶん前に中国版のDVDを買っていたのですが、中国語字幕で分かる自信がなく、また方言がすごいらしいとか色々前評判を聞いていて、まだ見てませんでした。

日本語版のDVDがあったのでレンタルして鑑賞。

いや〜、うわさ通り、とても面白かったです。

重慶の古い工芸品工場。
そこに新しいビルを建てたい地上げ屋がしょっちゅうやってきて、借金を返せなければ土地を渡せ、とあの手この手で言ってくる。
ところが、敷地内のトイレから(トイレの話ばっかり・・・)、大きな翡翠が見つかり、工場長はこれを売って工場を建て直そう、と、地元の展覧会に翡翠を出品する。
でも警備を雇う余裕がないので、工場の部下を臨時の警備担当にする。
地上げ屋翡翠があると、土地を手に入れられないと思い、香港で活躍する国際的泥棒の「怪盗」に翡翠の強奪を依頼。
この「怪盗」からカバンを盗んだ、地元のコソ泥三人組(普段は引っ越し屋を装って空き巣をしている)が、翡翠を横取りしようとたくらむ。
さらに、工場長のダメ息子、ナンパばかりしている自称カメラマンが、女を口説くために、この翡翠を偽物とすり替えてしまい・・・

ってかんじで、いろいろな登場人物がごちゃごちゃと出てくるのだが、皆よくキャラが立っていて、翡翠をめぐってうまく関わりあっているので、無理がない。
登場人物は皆どこか抜けていて、一人の美男も美女も出てこないのだが、どこかにいそうな、リアルな造形。
また、重慶に行ったことはないのだけれど、古いものと最新のものが混ざり合い、何か起こりそうなパワーがある中国の様子を娯楽作のなかに表現していて、いわゆる良心的な映画を見るときとはまた違う新鮮な感じがする。

日本語字幕で見たので、台詞の何割くらいが訳されているのだろう・・という気持ちになる。中国語版を見たら、もう少し細かい情報が分かるかも?
方言は、確かに強くて、いわゆる教科書的な発音からはずいぶん遠いことだけわかった。
どうも方言ならではの表現があるらしく、そういうところを笑えないのは残念だ。

最新作の「クレイジー・レース」は、映画の感想を書いているブログなどを見ると、前作ほど良くないという意見が目立つのだが、9月の福岡映画祭で見てきたうちの相方は、すごく可笑しくてオナカがよじれた、という。
DVDを買ってきて、今度は臆さずに字幕で見ようか、と思う。

 『性工作者2:我不売身、我売子宮』(崖っぷちの女たち)

ハーマン・ヤウ監督

今年の福岡アジアフォーカス映画祭で上映されました、が、べつに用事があって見に行けなかったので、DVDで鑑賞。
http://www.focus-on-asia.com/lineup/index.html

いろいろな映画祭で高い評価を得ていた作品で、気になっていました。

まださらっと普通話字幕でみただけなので、細かい所に???があるのですが、とても面白かったです。

この映画は、大陸から家族とともに香港に移民し、オーストラリアで人類学を学んだ女性ライターが書いたルポルタージュを下敷きにしているそうで、日本語訳も出ています。
(『香港性工作者』(小学館文庫)

でも、フィクション映画としてよくまとまりのある作りになっていて、楽しめました。

主な登場人物は、街娼をやっている女性と、見合いで大陸からやってきた若い母親(結婚相手は、実は日雇い労働者だったのだが、事故で急に死んでしまう)。
人の人生を値踏みする保険屋に、社会派のカメラマン。

後者の話の方がわかりやすいのです。彼女はおなかに双子を妊娠しています。上の子どもは大陸で生まれたため、香港の居住権をとることができない。彼女自身も、香港人男性と結婚したとはいえ、まだ正式の居住権を持っていない。彼女が香港に残るためには、香港人の子どもを香港で産むしかない。

(このあたり、制度についてもうちょっと調べないと、実はよく分かっていない私です。1996年頃から大陸出身の女性と香港人男性の間の子どもをどうするか、あるいは大陸出身で香港居住権を持たない親から生まれた子どもをどうするか、という話は、ずーっと香港ではもめ続けているのです。フルーツ・チャン監督の「リトル・チュン」でも、そのようなシーンが挿入されていました)

原題のサブタイトルは、この母親の思いをぶっちゃけたかんじです。彼女は、娼婦の女性たちに対して、「正しくないことをしている」と厳しいのですが、ラスト、香港人との結婚に失敗して、娼婦になった同郷の友人を非難して、逆に「あんたは子宮を売ったんじゃないの!」と言い返されるわけですが。

逆に、前者の娼婦のストーリーは、実はまだ分からない所がたくさんあったので、また改めて見てみようと思っています。

前作の『性工作者十日談』も買ったので、見てみようと思います。