『ドゥーニャとデイジー』

http://www.dunya-desie.com/

アムステルダムに住むモロッコ系2世のドゥーニャと、幼なじみのデイジー。18歳になった2人は、親がモロッコの親族と見合いをもくろむなか、違和感を覚えながらも、何となく従ってしまうドゥーニャに対し、ボーイフレンドをとっかえひっかえしているうちに、思わぬ妊娠に当惑するデイジー、と対照的な生活を送っている。

ドゥーニャは、ほとんど覚えてもいないいとことの結婚なんて・・・と母に反発するが、オランダに来たせいだ、そんな風に言うなんて私のムスメじゃない!と母親に言われて傷つく。
他方、中絶を迷うデイジーは、やはり若くして自分を産んだ母に、「お母さんは私を産んで後悔している?」と尋ね、「後悔している」と言われてショックを受け、実の父が住むというカサブランカを目指して、とりあえずドゥーニャが家族と向かった街へと、1人旅立ってしまう・・・・

というのが、大まかなあらすじ。

オランダのムスリムというと、トルコからの移民が多いというイメージを持っていたのですが、オランダはモロッコとも労働力移民の協約を結んでおり、トルコ人に次ぐ存在のようです。これは知らなかった。

この映画はオランダでヒットしたドラマの続編的な位置づけらしいです。ただ、ドラマが終わった頃に、テオ・ヴァン・ゴッホが暗殺されたり、と、国内のムスリムに対する認識が多少変わってきているとのこと。

映画自体への感想として、デイジーの側の無防備なセックスと妊娠、そして自分探し→自己肯定感の獲得、みたいなストーリーは、定型的ながらもよくまとまっている(=実は泣いた私・・・)のに対し、ドゥーニャの方のストーリーが、ちょっと見えづらいような感じがしました。
両親との和解、ルーツの確認、というあたりが、ちょっと表面的というか・・・。
親の側は、娘と息子へのダブルスタンダードを改めたというあたりが進歩なのか。
また、ドゥーニャの一家が、いかにも低階層な雰囲気(ファッションや行動が)のデイジー一家をすごく嫌っていて、「付き合うな!」と娘に再三言っているのに対し、デイジーの側は、そういう偏見をあまり持たないように描かれているのも、ちょっと気になります。
いわば、マイノリティの側が過剰に防衛的になって、自分たちの世界に引きこもっているかのような印象を与えるような気がするのです。
(これは『ベッカムに恋して』でも思ったことで、実際映画を授業などで見せると、そうした感想が戻ってくることがしばしばあります)

他方で、主に"南"から移民してきたマイノリティが、住居や職業の面で、出身地域の階層よりもやや低いところに参入せざるを得ないため、周辺に住むホスト社会の下層に位置する人びとに対して、軽蔑的な態度をとる、というのは、ありうるのかもしれません。
以前DVDで見たイギリス映画で、『Anita and me』というのがありましたが、似たような構図だった気がしました。

しかし、こうした不満点はあるにせよ、主人公のガールズがかわいくて生き生きしている、モロッコのあちらこちらをうろうろするロードムービー的な魅力、などもあって、全然退屈しない作品ではありました。
とくにドゥーニャ役の女優さん、カワイイです!

また、先に書いたものとも関連するのですが、この映画の移民母は、娘に「私のようになりなさい」「コミュニティの規範に従いなさい」と命じてくるのであり、「私の間違いを繰り返してはならない」というエィミ・タン的な母イメージとは大きく異なっています。
ベッカムに恋して』のインド系母も、娘の夢には否定的であり、むしろ異性である父=ホスト社会とのつながりが母より強い、が、最終的には娘の理解者となるのです。

いろんな移民映画で、母の描き方を比較するとおもしろいかも・・・。

というか、なぜか移民モノは、娘たちが主人公のものが多い,ということ自体が、ちょっと気になります。
男はホスト社会とコンフリクトを起こすため(=起こすものとして描かれるため、ということです。念のため)、コメディに向かないのでしょうか?